むかしむかしの話でございます。平城宮が造営されていた頃の、大昔のはなしでございます。

 

大峰山の年齢を重ねた自然林がうっそうと繁っている山中深くで、天地の神秘さに打たれながら歩いていますと、木こりの青年が白髪まじりの老人のお尻のあたりを強くぶっている光景に出くわしました。老人はしくしくと泣いているではありませんか。

 

「この怠け者、もっと働け」

 

「柴刈りはきつい。この仕事はもういやや」

 

私はこのざらざらした有様を見るに忍びず、眉のすずしい青年に次のように注意しました。

 「老人をいじめるのはやめなさい。お前もやがて老人になるのだから」

 

ところが、意外な言葉が血色のよい青年から跳ね返ってきました。

 「自分は父親であり、親のいうことを聞かないこの子をせつないが折檻しているのだ」と。

 

つまり、父親はこの山中で摂れる甘草やキハダなどの薬草を原料とした「だらに飴」を食べようとしない子供に愛の鞭を打っていたのです。

 

「だらに飴」を食べていた父親は、青年のように美しく元気で「だらに飴」を食べなかった子供は山林労働の厳しさに疲れ果て、老人のようにさらばえていたのです。なぜでしょうか。

 

「だらに飴」には、梅霊芝や麦芽糖のエキスが調じられているばかりでなく、『当証無量三味耶無量陀羅尼門』の即身成仏義の有難い守護佛が封じられているからでありましょう。

 

ここに肉体の細胞を若返らせるメカニズムが潜んでいるのであります。